3/16土 父の告別式を無事に終えました。 78歳でした。
父の告別式まで私の経験したことを、少し綴ろうと思います。
もう経験した友人もいるし、これから経験する友人のために
何か参考になれば。人の死に立ち会った貴重な経験でした。
3/14木 朝3時すぎにトイレの前で倒れました。
母が私を呼びに来て様子がおかしいので来てほしいと。
父はお酒を飲んで、トイレの前で倒れることが幾度かあったので、
私は「またか」と思い降りていきました。
父をベッドまで運ぼうと思うのですが、食いっぷりの良い父はとても重たく
なんとか工夫しないと運べません。
この時は、ただ泥酔しているだけかと思い、ゆったりと作業していました。
毛布にのせて、ひきずろうかと思い、毛布を横にしいて
なんとか母とひっくり返しました。
母が、「あれ?息してる?」というので、口元に耳を持っていっても
わかりません。息をしていると「している」とわかるのですが、
していないと「していない」ことがわからない。
胸に耳をあてても、心臓が動いていないことがわからない。
手首の脈をとっても、脈がうっていないことがわからない。
え?とパニックになります。
これはいつもと様子が違うと、119に電話しました。
私「心臓がとまっている気がする」
救急「口元に近づいて息をしていますか?」
私「していない気がします」
救急「あおむけでしたら、胸が上下していますか」
私「していません」ここで心臓がとまっていることを確信しました。
救急「心臓マッサージをしてください。脇にすわり、膝をついて、胸の中心を
両手を重ねて、12345のペースで押さえてください」
私は言われた通りやってみるもののできているか不安で、救急の方にこれで
いいのですか?と何度か聞き、「すぐに救急車が到着しますから、一度電話切りますね」と言ったら、あっという間に救急車が来ました。この時、相当動揺していました。
ほんと、電話を切って2分くらいではないかと感覚的に思っています。
外に出て、こちらですと誘導しました。
5-6人来ていたと思います。
すごい手際で、それぞれが動き、父の様子を母に聞く人、心臓マッサージする人、担架をセットする人と、すごい勢いでした。
運びます。
これはついて行かなければならない。母一人ではいけないと思い、私も救急車に乗り込みました。
寝ている私の娘に、おじいちゃんがこんなことになってるので救急車でいってくると、ざーっと説明して。
うちのワンコがワンワンうるさかったそうですが、ひとつも気づきませんでした。
救急車の中では、父のことのヒアリングが続き、心臓マッサージをずっとしていました。父の体が浮くぐらい、力強くマッサージをしていました。
救急車に乗っている間、いろんなことを考えました。
母は隣で「お父さん!お父さん!」そして、神様に祈ったり一生懸命、
命が助かることを希望していました。
父の体は力強い心臓マッサージで、体が動いていました。
それを見ているのが辛かった。
あばらが折れているだろうなーと思いました。
救急隊員の方は全力でずーーっと頑張ってくれていました。
点滴の針もいれようとしていましたが、車にのっていることと
心臓マッサージをしながらで、難しい様子でした。
日赤病院へと希望したので、通常車では20分ほどですが、救急車ではどのくらいでつくのでしょうか、10分程度かな。それが随分と長く感じました。
母がこの11月に日赤病院で手術をしたので、なじみのある風景でした。
救急車のドアがあくと、数人がざーっと来て、私たちを誘導する人についていくと、父は気がづけばいませんでした。
「こちらにお座りいただきお待ちください」
母が神様に祈っていました。
私は横に座り、私も祈ろうと思うのだけれど、どう祈ればいいのかがわからなくなりました。
それはうっすらと自分の役割がわかってきたから。
ここに来た意味がこれなんだろうなと思い始めたからです。
治療室はどうなっているのだろうか。
ずっとピピピとなっているのは、なんだろうかと気になるも、わかりません。
その内先生がやってきて、別室に入り、数字をみせてくれました。
先生の話は、
●まだ心臓は動いていない
●血液検査をした結果、この数値が7以上なら可能性があるが、6.7なので可能性が低い
先生は少し覚悟をしておいてくれという風でした。
もう少し様子をみますと。
また少し待たされて、今度は父のいる治療室へ。
心臓が動き出しましたと。
私は、驚きました。
「ただし、これは薬と機械に頼っている状態で、薬と機械をはずすと心臓はとまってしまうのが現状ですと。
もうしばらく様子をみます」
一度、戻されて、また少ししてよばれました。
現状は変わらない。
機械と薬がないと厳しい状況だと先生が、再度説明しました。
先生のいわんとしていることが私には、よくわかっていました。
私が母に「もういいよね?」と聞くと、がんばったと思います「はい」と言いました。
仲の良い夫婦でしたから、とても辛い選択だったと思います。
私はこれをするために、救急車に飛び乗ったのだと思いました。
このまま持続して微妙に心臓を動かし続けることができる。
足を触ったけれど、温かかった。血が通っている。
現代の医療のすばらしさに称賛と驚異を感じました。
映画「人魚の眠る家」を、たまたま見ていました。
それを後になって思いました。
これが娘なら、今の父のようにできただろうか?
すぐに、薬と機械をとめて、心拍がさがっていきます。
ツーーと0になります。
これは私が選択したからではない。
私はこのことに後悔をしないと確信していました。
父がもうやめてくれと言ってるのがよくわかったから。
逝かせてほしいと。
やっと母の手を離していけたのを、戻してはいけない。
たぶん、一生懸命、役割を冷静に行ったと思います。
実の娘だからできたのかと思います。
死亡確認をします。
その時、一瞬、心拍が戻ります。
若い先生があ!となり、私もえ?となります。
でも、よくわかっている年配の先生が、目くばせで大丈夫と。
そのまま死亡確認が続き、確か4時20分頃だったと思います。
時刻を言われました。
そして、先生からお話しがありました。
「実は、死因がわからないと死亡診断書が書けない
だから、警察に連絡することになります。」
それから、警察が到着するのを待ちます。
父は違う部屋に移動され、そこで白い布をかぶせられていました。
それに私は違和感を感じ、顔だけはやっぱり見える状態にして
母も一緒に父に話しかけました。
そして、「これでよかった。よく逝ったな」を何度も母と繰り返しました。
どっちかというと、もう決意していい聞かそうとしたさっぱりした感じだったと思います。
父は、仕事が好きで、家族も愛し、ユニークで個性的な父でした。
よく遊んでもらいました。出張の多い仕事で、時代がよかったからか、
ぐんぐん会社が大きくなり、よく稼いできました。笑(母より)
私は父に似ていて、とてもかわいがってくれました。
元夫が、「お父さんに愛された娘は自信家だ!」と言ってたのをよく思い出します。
無駄が嫌いで、一人でいる時は、電機は最小の電灯ですませるし、(ほぼ暗い)
いかにして無駄なくお金を使わずできるか!をよく考える人でした。
いつか、「おいしいうどん屋につれていってやる」と言って、どんなお店に行けるのか!と期待し、家族が車に乗り
どこへ行くかと思えば、高速道路で京都に行くまでのパーキングのただのお店のうどん屋でした。
え?ここ?とびっくりしましたが、「特製うどん」を頼むと確かに美味しかった。
あとは、かっこをつけることが嫌い。
合理的を突き詰めているような人でした。
しかし、実は無駄も多くて。
家系的にお酒が好きで、私が結婚して関東に行って、すぐに
東京出張に来てくれた時に新宿の叙々苑に私たち夫婦と父の取引先の方と
4人で食事をしました。私も知らない土地で父と会えたことに嬉しくて、
二人でワイン7本飲んだのを覚えています。(他の人はお酒飲めない方で)
酒代はすごい無駄なのですけれどね。笑
**
しばらくすると警察の方が来て、事情徴収です。
すごく丁寧で恐縮された感じで行われました。
父の遺体を警察に一旦引き取り、検死をしなければならないと言われました。
そして、家にも来て、事情を聴きたいと。
父の遺体がいつ戻るかは、まだわからず、早ければ今日、遅ければ明日です。
私は、もう仕事の段取りを考えていました。
遺体がいつもどるかわからない。その間は待つだけなのだから時間がある
ただ、母を誰かと一緒にいてもらわないといけない。
池田に住む母の妹が飛んできてくれました。それは朝の7時か8時
はー!ありがたい!
兄と妹に6時頃に電話しました。
妹が大泣きするだろうと思っていたけれど、予感がしていたらしく
冷静な対応にびっくりしました。
**
父が警察に引き取られて、外に出るとなんて寒い日だったのかと気づきました。
タクシーに乗って、家に帰ると、家の前で兄がたばこを吸っていました。
母は興奮したように兄にその時の状況を説明します。
***
今日はここまで。
また後日書きます。
長い文章を読んでいただきありがとうございます。
私はこうして書くことで、整理され気持ちが落ち着きます。
コメントがあればくださればまた嬉しく読ませていただきます。